【歴史異聞】凡夫か大英雄か愚将か、韓信【since紀元前196】

韓 信(かん しん、? - 紀元前196年)は、中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。張良・蕭何と共に漢の三傑の一人。 なお、同時代に戦国時代の韓の王族出身の、同じく韓信という名の人物がおり、劉邦によって韓王に封じられているが、こちらは韓王信と呼んで区別される[1]。

9月2日wikipedia「韓信」引用

韓信の選択肢一つで中国史は塗り替えられていた!?

「国士無双」「背水の陣」で有名な韓信です。
楚漢戦争で活躍した大将軍ですが、若い頃は貧乏で素行が悪かったようです。

周りの人からから見れば、大言壮語を吐く行動が伴わないタイプの人間でした。
ある日、若者から絡まれてしまいます。若者は「お前はデカイ図体をして剣をぶら下げているが、実は臆病者なんだろ!?臆病者じゃなかったら俺を斬ってみろ!」と罵ります。さらに若者は躊躇する韓信に「できなければ俺の股をくぐれば許してやる!」と言い放ちました。

韓信は剣を抜かず、観衆があざ笑う中で若者の股の下を黙ってくぐり抜けました。
この若者とは、王と一兵卒というかたちで後年また会うことになります。

その後、韓信は項梁軍の兵に志願します。項羽の護衛官になり、度々策を献じようとしますが項羽はこれを聞き入れません。そこで、韓信は項羽の元を逃げ出し、劉邦の元へ走ります。

下級役人に任命され、とりあえずの食い扶持は稼げるものの、満足せずヤケになった韓信は犯罪を犯し死罪になってしまいます。いよいよ自分が斬られる番だという時、傍にいた重臣の夏侯嬰に弁舌をふるいます。

さて、最初の「歴史異聞」はこの時何を言ったのかです。
よく知られる「漢王は天下に大業を成さないのか!?なぜ壮士を殺すような真似をするのだ?」←これだけでは普通は斬られているはずです。死を目前に戯言を吹いているだけなのだと思われなかった弁舌の才があったのです。

その後は蕭何と語り合い、劉邦に推挙されます。
劉邦はまともに取り合わず韓信を兵站官に任じますが、韓信は大いに不満で逃亡を図ります。
蕭何は慌てて韓信を連れ戻しました。韓信の真の才能を見抜いていたからです。「韓信を用いてくれないなら私も漢を捨てる!」「この男はほかの将軍たちとは違う!韓信は国士無双です」と言いました。これを聞いた劉邦は韓信の才能を信用し、大将軍の地位に就けました。

項羽との楚漢戦争へと身を投じていく韓信ですが、劉邦に兵を取り上げられたり大将軍の印綬を没収されたりと、この頃から劉邦の韓信に対する警戒心や猜疑心が高まります。

劉邦の警戒心と猜疑心が絶頂になったのは「斉を攻め取りました、私を仮の王にしてください」と韓信が書簡で願い出たときでした。この時劉邦は激怒しますが、張良に「今、韓信が背いたら漢は危ない」と言われ、韓信を真の斉王に任じます。

斉王として国を治める韓信の元に楚から使者がやって来ます。
もちろん、韓信を項羽側に付けようと画策する使者でしたが、韓信はこれを断わります。
この選択を「大きな誤りだ」と言った男がいました。説客の蒯通です。

さて、今回の「歴史異聞」は、斉王として第3の勢力にならなかった韓信についてです。
蒯通の言う通り、楚・漢に続く3つ目の勢力となれば、韓信の才能を知る両軍にとって大きな楔になります。劉邦は韓信の才を恐れ激怒するでしょう。項羽は侮り、馬鹿にしつつも味方に引き入れようとするでしょうか。第3勢力となりつつも、天下を狙えるかどうかは微妙です。

天下平定には至らないとしても、三国鼎立状態を保っていたでしょうか?
それとも、楚漢と上手に同盟や戦争を繰り返し、併合して全土を統一していたでしょうか?

答えはYESでもあり、NOでもあります。
どちらにしろ韓信の選択肢如何によって、その後の中国史が変わっていた可能性があるということです。最後に韓信という男はどんな人間だったのかで締めたいと思います。

大事にかけては右に出る者なし、小事にかけては凡人かそれ以下。



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