【歴史異聞】猿か覇者か暴君か、豊臣秀吉【since1598】

豐臣 秀吉(とよとみ ひでよし[3])/ 羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・天下人・関白・太閤。三英傑の一人。 はじめ木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、はじめ平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改めた。
9月9日wikipedia「豊臣秀吉」引用

鮮やかなサクセスストーリーに見え隠れする影と闇とは…

豊臣秀吉は有名過ぎて、本当は記事にしたくない歴史人物NO.1なのです。
それほど彼は知名度が高く、愛されている人物だからです。

そこで、今回はwikiなどで閲覧出来る「普通のエピソード」抜きで「豊臣秀吉」とは結局何者だったのかに迫りたいと思います。

まず、秀吉の性格はいわゆる「おチャラケ」、「ひょうきん」、「人たらし」という表現であらゆる書物やドラマに登場しています。これが先入観による間違いの始まりではないでしょうか。

彼は親指が2つあったと言われています。「六ツめ」と呼ばれ、強い劣等感を抱いていました。劣等感の元はそれだけではありません。秀吉の出自ははっきりと解っていません。尾張中村の身分の低い農民の子だったと言われています。さらに秀吉は背が低く、醜悪な顔だったと言われています。劣等感の塊のような男が、日本一の反骨精神で天下に上り詰めるのです。

はい?不可能ですね…普通なら。


秀吉が表舞台にはっきりと現れるのは、信長に仕えだしてからのことです。
彼は信長の小者から取り立てられ、10年余で侍大将になります。
腕っぷしが強いいくさ人ではありませんので、槍働きで出世したわけではありません。この早期出世劇は信長のおかげと言えるでしょう。信長はいくさ働きだけでなく、他の能力も重要視していました。桶狭間の恩賞第一簗田政綱がその例です。

さて、今回の「歴史異聞」一つ目は豊臣秀吉の「影」の部分です。
鮮やかなサクセスストーリーも彼一人では早々に討ち死にして幕を下ろすでしょう。
しかし、歴史上覇を唱える者の傍らには覇者より優秀な部下がいるのです。
その一人が羽柴小一郎秀長、大納言豊臣秀長でした。早くから兄秀吉の下で働き、支えてきました。劣等感という闇を抱える秀吉にとって異父弟の秀長は光でした。または、秀吉の強すぎる光を遮る雲でもありました。それぐらい秀長は秀吉にとって重要な人物でした。

秀吉の大出世に大いに貢献した豊臣秀長は、1591年2月15日病没してしまいます。
秀吉のサクセスストーリー終幕の始まりでした。
二つ目の「歴史異聞」は、豊臣秀吉の「闇」の部分です。

有能で信頼の置ける弟に続き、最大の理解者である大政所を亡くします。
マザコン秀吉最大のショック。臨終にも間に合わず遺体と対面、卒倒してしまいました。

若く元気な日輪の光は老いと共に薄れ、孤独感と劣等感の闇だけが残りました。
その後の秀吉は歴史の通り、下り坂とも言えるでしょうか。
ボケて小便を垂れ流し、後に天下をかすめ取る徳川家康に我が子の行く末を哀願するのです。

若き頃、大出世を祈って小刀で彫った運命線が薄れて消えかけた頃でしょうか。
彼は没し、豊臣家も数年後滅亡の憂き目に遭います。

豊臣秀吉とは、後世の人々が作り出した英雄
歴史的に考えてみれば、「暴君」そのもののような気もします。

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