【歴史異聞】2014年大河ドラマ「軍師官兵衛」黒田孝高の実像に迫る【since1604】

黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。孝高は諱で、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは出家後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。
豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。
キリシタン大名でもあった。子に黒田長政がいる。

2014年1月13日wikipedia「黒田孝高」

軍略に富んだ官兵衛、本当はどんな人物だったのか???


タカタ水産
 2005年~2008年ぐらいだったような気がします。「姫路市に大河ドラマを誘致しよう」という取組があり、黒田官兵衛を大河ドラマにするという署名にサインしたのを覚えています。

 姫路市姫路城は知っていても、黒田官兵衛孝高は知らないと言う人がいるかもしれませんね。wikipediaを閲覧すると大体ご理解いただけると思いますが、簡単に言うと羽柴秀吉の部下で戦のときに作戦を考えたり助言を与えたり、時には交渉役を担ったりした人物です。

天下人秀吉の側近です。物凄い人物なのにイマイチ脚光を浴びることがありませんでした。
それは何故か?活動拠点が局地的過ぎたのか、天下人という大きな傘の下に隠れてしまったのか。私はそのどれでもなく、黒田官兵衛という人物はヒーローになりきれなかったからだと思います。同じヒーロー要素を持つ人物が同時代に多過ぎるのです。三傑は然り、伊達、直江、軍師というなら竹中半兵衛、山本勘介もそうですね。

エピソードの一つに、黒田官兵衛は晩年秀吉から恐れられていたと言われます。
これは特に証拠が残っているわけでもないので俗説に過ぎないのですが、本能寺の変を告げる毛利宛ての密書を持った間者を捕えた時に秀吉の顔をのぞきこみ、「面白くはないか、面白くはないか」と言ったそうです。これには秀吉もゾクリ。つまり、主君秀吉の主君である信長が死んだ。天下はまた乱れる。乱れれば自分の活躍場所が一層増える。これは面白いではないか、やってやろうではないかという感じですね。

それから官兵衛は大名になり、息子に家督を譲り如水と号します。
秀吉が斃れると、虎視眈々と天下を狙っていた家康が動き出しました。
関ヶ原の合戦に乗じて九州を席巻するいくさを起こしますが、如水の野望は頓挫します。
なんと、息子長政の計略によって小早川秀秋を裏切らせた東軍が一日で勝負を決めてしまいました。如水は「長政は日本一の大馬鹿者だ!」と激怒りしたそうです。


さて、今回の「歴史異聞」は黒田官兵衛が天下を取っていたらどうなっていたかを考えたいと思います。関ヶ原が長期化し、九州から10万を超える軍勢で上方に襲来する黒田軍が徳川勢を打ち破ったとしましょう。その後、政権を掌握し天下人の座につきます。しかし、いずれは息子に代を譲る日が来ます。この親子、性質が違うんです。父は知略に長けた人物ですが、息子は武闘派でした。黒田長政は父と比べ知略で劣るかもしれませんが、無難に天下を治める力量はあったかもしれません。実際に実高100万石を治めているわけですから。
こうなると徳川政権と変わらないような気がしませんか。代替わりするだけで黒田将軍家が続くんです。ひょっとしたら江戸時代より長く続いていたかもしれませんね。禁教令を廃止して鎖国していなければ我々の知る「近代」がもっと早くに来ていたかもしれませんね。

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